新着記事

2024年03月21日
桜の情報
2024年02月29日
お知らせ

沿革

宗派:曹洞宗

開基:真田幸綱(幸隆)公

開山:伝為晃運 大和尚

お参りについて
・真田公墓所へは自由にお参りください。※冬季は雪の為お参りできません。
・御朱印は本堂に書き置きがございます。 本堂は午前5時~午後5時までのお参りです。(日により変更する場合があります)
・小さな寺ですので草取りや掃除、法事や仕事で不在があります。ご相談などは事前にお電話等で予定を確認ください。
※個人情報や人権の観点から檀信徒様のお墓やご先祖様に関するお問い合わせは一切お断りさせていただいております。

 


長谷寺の由来についてお話します。

往古、『種月庵』という無住の小寺がありました。
天文16年(1547年)真田幸綱公(幸隆)が上州(現在の群馬県安中市)の長源寺より『伝為晃運和尚』を招き、真田氏の菩提寺として『真田山種月院長谷寺』を建立しました。その後、真田昌幸の代に諸堂が整備されました。
長谷寺二代目『角翁』和尚は群馬県渋川市に『龍伝寺』を建立。三代目『廣山』和尚は上田市真田町本原に『廣山寺』を建立しております。
長谷寺は慶長5年(1600年)第二次上田合戦の兵火により焼失。その後再建されますが、寛保2年(1742年)台風による土砂災害による被災。宝暦7年(1757年)に火災にて焼失。十四代雄峰和尚の代に再建されますが、明治23年1月10日の火災にて全焼。その後、民家を移築し法灯を護ってまいりました。現在の本堂は昭和53年に再建されました。


 

長谷寺と真田氏

長谷寺と真田氏についてお話します。

真田幸綱(幸隆)公以前の真田氏については諸説ありはっきりしておりません。
真田幸隆の「幸隆」名は晩年出家した出家名『コウリュウ』であり、出家前の名は幸綱が名前となります。近年の研究では「幸隆」から「幸綱」を使うようになってきておりますので「幸綱」にて表記いたします。
真田幸綱(幸隆)は永正10年(1513)生まれ。当初は海野氏の家臣として仕えておりました。天文10年海野氏は村上氏との戦により滅ぼされます。幸綱は上州の長野頼政をたより逃れます。幸綱はこの時に長源寺の典座という役職の和尚に世話になります。典座とは禅宗のお寺の役職で料理長のような役職です。禅宗では調理も尊い修行とされております。この典座和尚が伝為晃運和尚でございます。
真田幸綱はその後武田信玄の家臣となり、村上氏の強固な砥石城を一夜にして落とすなど活躍し真田の旧領を回復。そして真田の菩提寺として、世話になった伝為晃運和尚を招いて『長谷寺』を建立しました。
幸綱の長男「信綱」次男「昌輝」は長篠の戦いにて戦士したため三男の「昌幸」が家督を継ぎます。昌幸の代に長谷寺は諸堂が整備されました。真田氏はその後関ヶ原の戦いから、真田氏は父昌幸と次男信繁(幸村)は豊臣方に、長男信之は徳川方につきます。
関ヶ原の戦い後、徳川につかなかった昌幸と信繁(幸村)は九度山へ蟄居を命ぜられます。昌幸は上田に帰ることを熱望していたようですが叶わず蟄居中に九度山で死去します。昌幸の帰郷の意を大切にされ昌幸は故郷菩提寺の長谷寺にお墓が建立されました。
その後、真田信之は長野市松代へ国替えを命ぜられ上田真田の地を去ることになります。この時に菩提寺である長谷寺の住職も随身し松代に真田の菩提寺として『谷』から読みをとって字を替え『長國寺』を建立しました。長谷寺は長國寺の末寺となり現在に至っております。

 

おすすめのお参り

・長谷寺は駐車場は余裕がありますが、観光向けにはなってません。静かに自然に仏に出会っていただければ幸いです。

・おすすめは、第2駐車場にお車を停めていただき、参道や桝形をあるきながら石門をくぐって境内に~境内の桜の老木に囲まれてしばし一呼吸。本堂前の豊水で「冷た~い!」。本堂の扉を開けていただき、御本尊様へ手を合わせ。本堂右手の廊下の下をくぐって裏庭へ。裏庭から墓所へ。真田公墓所に手を合わせ、境内に戻って、鐘楼へ。願いを込めて『ご~ん』を一回。