真田 信繁(幸村)  
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(yukimura)
真田 幸村は真田氏の中でもっとも有名な人物として知られています。
次のコピー幸村.jpg (11992 バイト) 生まれ

幸村’は『信繁』(のぶしげ)という名が本来の名ですが通称‘幸村’と呼ばれています。幸村は永禄10年(1567)産まれました。

第一次上田合戦では父「昌幸」や兄「信之」と共に徳川と戦い勝利をおさめます。その後秀吉の勧告により徳川と和解します.

上田合戦とちっ居生活 がて太閤秀吉がなくなると再び動乱の世となります。徳川の命で会津攻めに向っていた真田家父子は石田光成の使者に豊臣方への援軍の要請を受けます。父「昌幸」「信繁」「信之」で話し合った結果、真田の子孫の為?両方の恩義に報いる為?父「昌幸」と「信繁」は豊臣方、兄「信之」は徳川方につくことになります。

関が原の戦いに向っていた徳川秀頼の3万数千の軍を真田は2000あまりの軍で上田城にてまた勝利し徳川の軍を足止めします。第2次上田合戦とよんでいます。

しかし、関が原の戦いは徳川の勝利であり「信繁(幸村)」は父「昌幸」とともに打ち首となるところを「信之」の懇願により助けられ和歌山県の九度山へ流されます。蟄居生活中父昌幸は亡くなります。

大阪冬の陣 やがて時代は「大阪冬の陣」を迎えます。幸村は‘豊臣秀頼’方の誘いを受け大阪城に入ります。幸村は戦いに備え出城「真田丸」を築きます。この真田丸は冬の陣で大いにその力を発揮し有名になります。この「大阪冬の陣」は堀を埋めるという条件の和議をもって終結します。これにより真田丸は使えなくなります。
大阪夏の陣 そして決戦の「大阪夏の陣」を迎えます。幸村は家康の本陣へ突入し家康の命を危うくしますが失敗に終わります。このとき傷ついた幸村は近くの「安居神社」で兜を取り休息しますが、このとき命を絶ちます。49歳の生涯でした。
幸村の息子‘大助’も戦っておりましたが、秀頼の自害に続き自分も自害し若過ぎる人生を終わらせます。大阪城は落城し動乱の時代は終息します。

このときの武勇伝により真田幸村は有名になり、勝敗が見えるにもかかわらず決死の覚悟で望む姿・優れた戦略に多くのファンをひきつけています。

 真田氏は幸隆の時代から忍びを活用し情報収集や戦略に用いたといわれております。‘猿飛佐助’‘霧隠才蔵’などの真田十勇士(実際には架空というのが事実でしょう)が語り告がれています。

その後の真田氏  

一方真田氏は徳川方についた長男‘信之’が継ぎ領地は上田から長野市松代に移封になったものの末裔は現代まで続いております。

上田城はその後仙石氏、松平氏が統治し現在は櫓とお堀が残っております。しかし真田家当初の建物は残っておりません。