真田 昌幸
Sanada-Masayuki
真田昌幸(さなだ まさゆき)は真田氏を発展させるとともに、全国に真田氏の名を響かせました
次のコピー昌幸.jpg (13809 バイト) 誕生

天文16年(1547「幸隆」の三男として産まれました。

 

「幸隆」の死後、長男「信綱」が真田氏を継ぎます。織田信長と対立した武田氏は戦うことになり、武田氏の家臣であった真田氏は同行します。

兄の死 天正3年(1575)「長篠の戦」にて武田側として戦った兄‘信綱’‘昌輝’が共に戦死したことから‘昌幸’が真田氏を継ぐことになります。
沼田城攻略 ‘昌幸’は早速武田氏の意向を受けて上州(群馬県沼田市)天正8年(1580)「沼田城」を攻略します。そしてこの地も統治するようになります。
武田氏の滅亡 しかし、やがて武田氏は滅亡を迎えます。(武田信玄の墓所を兄弟の眠る「信綱寺」に設けたいという昌幸の意向もあったようですが実現しなかったようです。)
上田城築城 めまぐるしく変わる戦国時代、主君を失った昌幸は地元上田・小県地方を固め、天正11年(1583)「上田城」を築城し戦略のみならず政治、経済の中心となるべく都市を築き、基盤がためをいそぎます。城は南側を大河千曲川、その他の周囲は堀で囲み、城下町には袋小路等や大きな道もやがて狭くなるなど戦に備えた設計でした。このとき徳川に属していた昌幸は沼田城の所有を巡り徳川と対立します。
第一次上田合戦 天正13年(1585)徳川は8000あまりの軍を上田に向けます。「第一次上田合戦」の始まりです。受ける真田勢は2000に届くかの小規模な軍。にもかかわらずこの戦いで勝利した真田の名は全国に知れ渡ります
徳川家康との和解 時代は豊臣が天下をまもなく治めるころで、昌幸は豊臣秀吉の命で大阪城に赴き豊臣秀吉の臣下となり秀吉の勧めで徳川と和解します。「沼田城」は秀吉の命で北条氏へ引き渡しますがすぐ近くの「名胡桃城」は真田のものとされました。
小田原攻め しかし、この「名胡桃城」を北条氏が搾取。怒った秀吉は北条氏の拠点「小田原城」を攻め北条氏を滅ぼします。これにより「沼田城」は再び真田の治めるところとなり、昌幸の長男『信之』が徳川の養女『小松姫』を妻に迎え沼田城主となります。これにより徳川とのつながりができました。 次のコピーuedajyo_yagura.gif (34476 バイト)

(上)上田城のやぐら

犬伏の別れ 太閤‘秀吉’の死により天下太平も長く続かず、時代は天下分け目の戦い関が原へと向かいます。徳川の命令での会津攻めに、徳川軍と合流する為に宇都宮に向かっていた昌幸は栃木県犬伏にて石田光成からの「軍を上げ協力してほしい」との書状を受けます。昌幸は息子の『信之』『信繁』(幸村)と父子三人で話し合います。この話し合いで『昌幸』と『信繁』(幸村)は豊臣方、『信之』は徳川につくことを決めます。両方の恩義に報いる為と真田を残す為の策略と思いませんか?
「第二次上田合戦 「関が原の合戦」に向けて徳川は軍を西に向けます。‘徳川秀忠’の軍は中仙道経由で上田を通過して関が原に向かうコースをとります。秀忠軍は3万数千、これに対し真田は2千余りにて戦いを挑みます。そして上田城を中心に「第二次上田合戦」が繰り広げられます。(このとき長谷寺にも兵火が及ぶ)大きな軍勢であるにもかかわらず秀忠軍は上田城を落とすことができずに上田で足止めをされ1600年「関が原の戦い」の終わりを信州で迎えてしまいます。この戦いでは昌幸の息子『信之』も参戦していましたが、お互いは上手に傷をつけずに乗り切りました。「関が原の戦い」で勝利した徳川ですが、家康の長男秀忠が要の戦い「関が原」にいなかった事に対する家康の怒りはそうとうなものであったでしょう。
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上(向って右が真田昌幸の墓)中心は父幸隆の墓、向って左は昌幸の母の墓)

慶長16年(1611

昌幸の死

「関が原の戦い」敗北した豊臣方についた‘昌幸’‘幸村’は死罪のところを‘信之’の強い願いで和歌山県九度山への蟄居の身で済むこととなります。‘昌幸’はこの九度山で郷里を想いながら慶長16年(161165歳の生涯を閉じます。‘昌幸’は九度山の「真田庵」に葬られますが、故郷を強く思っていた昌幸のために遺髪等は国元に運ばれ、長谷寺にある両親の墓の隣に埋葬されました。また、九度山でのちっ居生活中に長谷寺の諸堂修理を命じるなど両親、故郷を慕う思いはかなり強かったようです。真田の山の中の長谷寺の墓所では両親の隣に寄り添うようにひっそりと眠っております。

また、信之をつうじて残った真田の子孫は現在まで続いております。




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