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真田幸隆公夫妻、真田昌幸公菩提所  真田山種月院長谷寺

電話でのお問い合わせはTEL.0268-72-2040

アクセス

沿革history


往古より長谷寺の裏の山岩井堂山には白山信仰を集める修験道の霊場があり、
その道筋の地には「種月庵」(創立年等詳細不詳)という無住の小寺がありました。

天文16年(1547)真田幸隆公が上州(群馬県安中市)の長源寺より、
伝為晃運和尚を招いて真田氏の菩提寺として「真田山種月院長谷寺」を建立しました。

二代目「角翁和尚」は群馬県渋川市に「龍伝寺」を建立。
三代目の「廣山和尚」は真田町本原に「廣山寺」を建立しております。

真田昌幸は父幸隆の菩提のために寺の増築改修を行い諸堂を完備しました。
しかしながら、慶長5年(1600)第二次上田合戦の際に退却する徳川勢に火を放たれ焼失。
その後再建されますが、寛保2年(1742)の台風の際に土砂災害にあうと伝えられております。
その後宝暦7年(1757)に火災により焼失。
14代雄峰和尚により再建されますが、明治23年1月10日の火災により全てを焼失しております。

現在の建物は昭和53年に再建されたものでございます。


宗派
曹洞宗(本山:大本山永平寺、大本山総持寺)
本尊
釈迦牟尼仏坐像(昭和53年本堂再建の際に新造) 
その他の仏像
聖観世音菩薩、
駐車場
拝観無料、暗くなってからのお参りはご遠慮ください。
観音堂
白山妙理大権現 十一面観世音菩薩

真田幸隆公

真田幸隆公の以前については、諸説ありはっきりしておりません。
真田に昔からいたとも伝えられております。

生まれは永正10年(1513)最初は海野氏の家臣として仕えておりますが、地元の豪族村上氏との戦いで海野氏は滅びます。真田幸隆公は落ち武者となり上州の長源寺に身を寄せ、初代の和尚と出会います。

その頃、武田氏は上田方面への侵攻を進めたいとしておりますが、
強豪村上氏が足かせであり特に砥石城の守りは強固なものでした。
幸隆公は武田氏の家臣として働き、この砥石城を知略により一夜にして制圧しました。
このはたらきが認められ幸隆は真田氏の領を回復し、菩提寺として長谷寺を建立しました。
その後めきめきと才覚を発揮し武田氏の下勢力を上州に広げ真田氏の礎を築きました。

天正2年(1574)、享年62歳で病死したと伝えられております。

真田昌幸公

昌幸は、真田幸隆の三男として生まれました。
長男「信綱」次男「正輝」が長篠の戦いにて戦死したため、昌幸公が真田家を継ぐことになりました。
(昌幸公は兄の菩提のために兄「信綱」を開基として真田の地に信綱寺を建立しております。)

真田幸隆より真田の地に屋敷を構えておりましたが、
天正11年(1583)に北国街道の要所上田へ平城を築城します。
上田城では徳川八千数百という大軍を退ける活躍をし、真田の名は戦国の世に伝わってまいります。

徳川とは秀吉の仲介で和解しますが、秀吉の死後は、徳川、豊臣のどちらにつくか決断を迫られます。
昌幸と子、信之と幸村(信繁)はそれぞれ両方の恩義に報いんと
長男信之は徳川方、昌幸と幸村は豊臣につくように決断をします。

その後上田城では、関ヶ原の戦いに向かっていた徳川秀忠の大軍を足止めさせた為、
昌幸と幸村は家康の怒りを買い死罪のところを信之の懇願で和歌山県九度山への蟄居という処分となります。

昌幸は九度山からふるさと真田を案じながら、
帰郷の願い叶うことなく九度山にて慶長16年(1611)64歳の生涯を閉じます。

しかし、家臣はその昌幸の想いを汲み、遺髪や遺品の一部を長谷寺へ運び両親の眠る下へと埋葬されました。


その後の真田氏 と 長谷寺と長国寺

真田幸村(信繁)は、大阪の陣にて大阪城で真田丸を築き奮戦しますが、49歳にて戦死。
一方徳川方についた長男信之は上田に帰りますが、その後真田は上田より松代(長野市)へ所領を移されます。

その際に、菩提寺であった長谷寺と住職も松代に真田氏とともに移りました。
その際に混同を避けるために同じ「音」の読み(ちょうこくじ)で一文字を変え、
『長国寺』を建立し真田氏の菩提寺としました。

真田氏は徳川と豊臣両方の恩義を重んじながら天下分け目の両方についたことから、
子孫を残すとともに、豊臣についた幸村の子も徳川家臣によって助けられその子孫も残しております。

真田氏は戦術に優れていたというより、人柄として慕われていたからこそ生きながらえたと思えてきます。

長谷寺開山 伝為晃運和尚

真田幸隆は海野氏の家臣として働いておりましたが、
天文10年の戦で海野氏は敗北し海野氏は滅びます。

真田幸隆は落ち武者となり上州(群馬)の長野業行を頼り長源寺という寺に身を寄せます。
多くの僧が落ち武者である幸隆を避けておりましたが、
この寺の典座(禅寺の料理長)を務める晃運和尚は分け隔てなく世話をしました。

その晃運和尚と親しくなった後、幸隆は武田氏の家臣となり、
砥石城攻略などの活躍を行い真田の地に戻り、菩提寺『長谷寺』を建立し、
この晃運和尚を開山として招きました。

このような仏縁との関わりから幸隆は地域の信仰も大切にされ、
それが家紋の「六文銭」ともなったと想像できます。

きっと和尚と幸隆はこんな人だったでしょう・・・。

『幸隆殿今日も酒をやりましょう』
『和尚、いつもいろいろとすまぬ。
 きっと真田に戻ったら 寺を建てるから 和尚と真田で飲みたいの』
『では落ち武者の幸隆殿に出した酒の分 きちんと返してもらいますからな』(笑)

長谷寺と白山(はくざん)信仰

長谷寺より約2キロほど林道を登ったところに『観音堂』と呼ばれる洞窟があります。
この地は鎌倉時代より、この地方の白山信仰の霊場となっていた場所です。

修験道の修行者が修行をしていたと考えられ、本地仏の十一面観音の凡字を彫った碑があります。
この地方では一番古い石碑であり、上田市の文化財に指定されております。

この白山信仰は、真田集落内にある山家神社との関係もありました。
山加神社は延喜式の神社ですが、のちに白山信仰も加わり白山様も呼ばれております。

山家神社境内には白山寺という天台の寺(明治に廃寺)もあり、真田氏の祈祷所でありました。
長谷寺も開山当初は長谷式観音の本地仏である十一面観音が本尊であったと推定されます。
また、長谷寺は真田屋敷の背面にある信仰の道沿いにつくられたお寺でございます。。